日常生活を豊かにする、すぐに使える心理学テクニック
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村松 努 1950年(昭和25年)1月1日、私はこの世に生を受けました。しかし、その始まりは決して祝福されたものではありませんでした。母はリウマチを患っており、母子ともにあまりに虚弱であったため、私は堕胎される予定だったのです。この事実は、小学3年生の時に祖母から聞かされ、自身の命が当たり前のものではないことを幼心に刻みつけました。
生後も試練は続きました。全身に原因不明の皮膚疾患を患い、0歳から3歳まで、記憶もおぼろげな幼児期を全身包帯だらけの姿で過ごしました。その姿はまるでミイラのようであったと、後に聞かされています。
物心ついた3歳から5歳の頃、私には不思議な記憶があります。家の裏の畑に出ては、静かに夜空に浮かぶ月を眺め、「自分はあそこから来て、またあそこへ還るのだ」と、漠然と思っていました。その思いは、どこか懐かしくも、言葉にできないほどの寂しさを伴うものでした。
私の幼少期は、社会との関わりにおいても孤独でした。キリスト系の幼稚園に通い始めましたが、そこにあった磔のキリスト像がどうしても怖く、園に行くのを嫌がりました。無理やり連れて行かれても、園庭のジャングルジムの上に一人で座り、ただただ帰りの時間が来るのを待つだけの日々。ついに私は母に「幼稚園には行きたくない。小学校には必ず行くから、お願いだから行かせないでくれ」と泣いて頼み込みました。母がその願いを受け入れてくれてから、二度と幼稚園の門をくぐることはありませんでした。

私の人生は、幼い頃から常に死と隣り合わせでした。それは、後の私の生き方を決定づける、重要な体験の連続でした。
6歳の時、母方の実家の屋根に落ちていた柿を口にしたことが原因で、赤痢に罹り生死の境を彷徨いました。高熱にうなされ、意識が遠のいていく中で、私は初めての臨死体験をします。詳細は記憶の彼方ですが、命の炎が消えかける瞬間の、不思議な静けさを体感したのです。
8歳になると、今度は呼吸が私の命を脅かしました。祖母がそばをミノでふるい、その細かい粉を風下で吸い込んでしまったことで、呼吸不全と急性の喘息発作を起こしたのです。それから12歳(小学6年生)までの4年間は、病院通いと入退院の繰り返しでした。発作を抑えるために投与されたペニシリンが、私に強烈なアレルギー反応、アナフィラキシーショックを引き起こしました。意識を失い、再び死の淵に立った私は、三途の川を渡りかけるという、二度目の臨死体験をしました。
度重なる病と入院生活は、私の行動を著しく制限しましたが、その代わりに素晴らしい贈り物をくれました。それは「本」との出会いです。動けない分、私はただひたすらに本を読みふけりました。ひと夏で100冊を読破するほど、物語や知識の世界に没頭したのです。
また、私の家では不思議な役割がありました。次男であったにもかかわらず、周りで誰かが亡くなると、なぜかいつも私が火葬場へ付き添うことになっていたのです。そのため、幼い頃から人の「死」やご遺体を間近で見る機会が非常に多くありました。この経験が、人の身体や命と向き合う現在の仕事に深く繋がっていると感じています。今振り返ると、これら全ての出来事は、命に関わる生き方をするよう、最初から神の差配によって定められていたのではないか、と思えてなりません。
中学生になっても喘息は続きましたが、幸いにも良い友人に恵まれ、勉強の成績は中くらいから上位へと上がっていきました。ただ、小学生時代の長い入院生活の影響で、積み重ねが必要な教科は不得意でした。本が好きだった私は、中学・高校と図書委員を務め、いつでも本が読める環境に身を置きました。ついでに写真部にも出入りし、化学の先生が顧問だったおかげで、撮影した写真を自分で現像する楽しみも覚えました。
高校生になると、弓道、卓球、ワンダーフォーゲル部など、様々な運動部に所属し、少しずつ体力をつけていきました。大学では車に夢中になり、ラリーの練習に明け暮れる毎日。一方で、人間を肉体だけでなく精神的な側面から科学的に考察したいという思いから心理学に、そして経営に興味があったことから経済学に惹かれました。しかし、昔から先生の好き嫌いが激しい性格で、歴史学者として有名だった色川大吉教授の講義だけが、私の知的好奇心を満たしてくれるものでした。
ここで、私の父親について少し触れておきたいと思います。父は本来、弁護士を目指して書生をしていましたが、戦争で満州へ行かされ、何度も死にかけたそうです。幸いにも良い上官に恵まれ、無事に日本へ帰還。戦後は中島飛行機で働き、その後テーラー(仕立屋)になりました。寡黙で真面目、コツコツと仕事をする職人気質の人でした。唯一の楽しみは仕事後の晩酌でしたが、決して多くは飲みませんでした。私が幼い頃に風邪をひくと、決まってウィスキーを飲まされたものです。趣味は日本刀を研ぐこと。そして、初めて自分の車を買ってからは、それを本当に大切にしていました。最初の愛車はマツダのR360クーペ。私が4歳くらいの頃、その小さな車に家族5人で乗り込み、日光へ出かけた思い出があります。いろは坂を登りきれず、みんなで後ろから車を押して上がったこと、中禅寺湖のあたりにまだ雪が凍って残っていたこと、そしてトイレが異常に汚かったことを鮮明に覚えています。父があれほど楽しそうにしていた姿は、後にも先にもなかったかもしれません。その車は、父の魂そのものだったのでしょう。私もその影響を受け、今でも車をとても大切にしています。
大人になってから、私は自身のトラウマとも向き合うことになります。MRI検査を受けた際、それまで感じたことのなかった狭い場所への恐怖に襲われました。思い返せば、幼少期にトイレに閉じ込められたり、お風呂の蓋をされて重石を乗せられたり、いたずらをして柿の木に吊るされたりした記憶が蘇ります。また、小学生の時に新築した家の2階の階段がまだ未完成で、踊り場から落ちそうになった怖い思いもしました。これらの記憶が、私の閉所恐怖症や高所恐怖症、そして階段への異常な恐怖心の根源となっているのだと感じています。
大学では、将来経営者になりたいという思いから経営経済を学びました。3年生ですべての単位を取り終え、残すは教職の1科目のみ。4年生になると、実家がテーラーだったこともあり、ファッションの道へ進むためフランスへ留学しようと考えていました。その準備として、当時ファッションの最先端であった表参道のショップを訪ね、「ここで働きたい」と直談判しました。その店は本来、縁故採用しかしない名店でしたが、「変な田舎者が来た」と面白がられたのか、社長面接を経て採用が決まりました。後から知ったのですが、そこは菊池武夫氏と大楠雄二氏が共同経営する、新進気鋭のファッションブランド「BIGI」だったのです。周りには三宅一生、山本寛斎、森英恵といった、時代を牽引するデザイナーたちがおり、スタッフも華道家の勅使河原蒼風氏のご子息など、錚々たる顔ぶればかり。田舎のプレスリー気取りだった私は、誰よりも必死に働きました。しかし一年後、生地に使われる防腐剤が体に合わず、呼吸器を痛めて喘息が再発。泣く泣くその道を断念せざるを得ませんでした。
23歳から29歳までは、まさに模索の時代でした。24歳で現在の妻と結婚し、BIGIを辞めてからは起業も経験しました。学生の間で流行していたマルチ商法のはしりのようなベンチャービジネスで、一時は100人以上の部下を持ちましたが、人の上に立つ仕事は自分に向いていないと痛感し、結局辞めてしまいました。この時期、人に騙されるなどして500万円もの借金を背負い、返済のためにトラックの運転手から港湾労働まで、ありとあらゆる仕事を経験しました。社会の仕組み、政治や経済の裏側、そして世の中の陰の部分まで、身をもって知ることになったのです。
そんな混沌とした日々の中、28歳の頃にある転機が訪れます。ある人の紹介で、天皇家にも伝わるという特別な治療法を学ぶ機会を得て、難病治療に携わるようになっていました。そんな折、東京大学の教授から「伊豆で面白い講演会があるから行ってみないか」と誘いを受け、私は一人、その地へ向かうことにしたのです。
29歳、伊豆の下田。それが、私の人生を決定づける、生涯ただ一度の師との出会いの場となりました。
河津の駅に降り立つと、60代以上と思われる、田舎のおじさんといった風貌の男性が出迎えてくれました。現地へ向かう道すがら、その老人は私の常識を次々と覆していきました。秋の道端に実る柿を見つけると、「うまそうじゃ」と言って、ひょいと人の家の塀の中に入り、柿をもいできました。別の場所でも同じようにミカンや栗を採ってくるので、私が「お知り合いのお宅ですか?」と尋ねると、「知らぬ」と一言。「知らないお宅のものを取ってきて大丈夫なのですか?」と重ねて問うと、「自然の物じゃよ」と、こともなげに言うのです。
お宅に着くと、その方は周りの人々から「先生」あるいは「拓念和尚」と呼ばれていました。この方こそが、私が会いに来た人物だったのだと、その時初めて気づいたのです。僧侶の姿もしておらず、直々に出迎えてくれたとは夢にも思いませんでした。
家に入ると、土間にあった籠に、道すがら“いただいてきた”柿や栗をすべて入れました。そばにいた人が「和尚、おいしそうですね」と言うと、和尚は「持っていけ」と応えます。「どのくらいよろしいですか?」と聞くと、「好きなだけ持っていけ」と。人の家のものを勝手に持ってきて、それをまた人に「好きなだけ持っていけ」と言う。このやり取りに、私は衝撃を受けました。この時、私は学んだのです。自然界のすべてのものは、与えるものでもあり、いただくものでもある。所有という概念を超えた、万物の本質を教えられた瞬間でした。この教えは、その後の私の人間関係や物事の捉え方の根幹となっています。
その後、和尚は「天皇の道を散歩に行くからついてくるか?」と私を誘いました。下田の町が見下ろせる高台で、和尚は下を指さし、「あれは何かわかるかね?」と尋ねます。「わかりません」と答えると、「御用邸じゃよ。なんと、せせこましく不自由なことよのぅ」と呟きました。その言葉を聞いて、私はハッとしました。天皇でさえ、真の自由はない。人が自らの意思で自由に生きられること、これ以上に素晴らしいことはないのだと。
家に戻り、夜になると近所の人々が集まってきて、それぞれが持ち寄ったものを食べ、飲みながらの宴会が始まりました。宴が終わると、拓念和尚と、その家の持ち主である興津・清見寺の和尚、そしてもう一人の方と私の四人で、近くの蓮台寺温泉へ行くことになりました。湯に浸かりながら、和尚が私に尋ねました。「君はどんな仕事をしているのかね」。私が「難病の治療をしています」と答えると、和尚は静かに、しかし力強くこう言ったのです。「人に喜ばれる、良い仕事じゃ」。
それまで、この仕事を続けるべきか迷いを抱えていた私の心は、この一言で決まりました。人に喜ばれ、感謝され、お金をいただけて、さらに自分自身も学び続けられる。これほど素晴らしい仕事はない。この言葉が、私の一生を決定づけたのです。
翌日、和尚の講話が開かれました。その席で、この講話が日本で最後となり、和尚がアメリカの禅センターの館長として渡米することを知りました。参加者から「言葉も喋れないのに、アメリカへ行って何をするのですか?」と問われた和尚は、「君たちは禅がわかるかね?」と問い返しました。「わかりません」と答える参加者に、和尚は「ならば、どこの国へ行っても一緒じゃ」と言い放ちました。そして、渡米する理由を「今の日本は面白うない。アメリカにはまだ未来がある」と語りました。その姿から、私は「見て見ず、聞いて聞かず、知って知らず」という、物事の奥義を探求する姿勢、そのためには命がけで臨む覚悟を学びました。
この二日間は、私の人生にとって何物にも代えがたい、かけがえのない時間でした。数年後、再びその地を訪ねましたが、庵に通じる道も家もなく、すべては幻だったかのようでした。まさに、天が差配した一期一会の体験だったのです。
拓念和尚と出会った翌年、私は鍼灸学校に入学しました。すでに家庭も子供もいたため、家族を養い、学費を稼ぎながらの生活は困難を極めました。しかし、医療を通して人のために尽くすには、保険を扱うための国家資格が必要でした。その一心で学校に通いました。学校の基礎勉強だけでは飽き足らず、臨床で難病と向き合う術は、ほぼ自己流で研究を重ねました。
資格を取得する前から、私は協会を訪ね、保険診療を始める準備を進めました。資格取得後、すぐにでも始めたいと会長に申し出ると、「そんなに焦らなくても」と諭されましたが、私の決意は揺るぎませんでした。そして、わずか2年で、私の治療院は東京で、ひいては日本で一番の保険診療件数を記録するまでになったのです。しかし、一番になったことで待っていたのは、業界からのやっかみと嫌がらせでした。業界の底上げをしたいと願っていた私は、その現実に深く失望しました。拓念和尚の「今の日本は面白くない」という言葉が、脳裏に蘇りました。
私の目は、自然と世界へと向かいました。もともと大学時代に日本一周を達成し、次は世界一周を目指していた夢が、心のどこかに残っていたのです。30代は、シンガポールやタイを拠点に、年に5、6回は東南アジアへ渡りました。しかし、現地の人々に技術を教えても、彼らが求めるのは手っ取り早く金になる手段であり、学問としての探求心は薄いことを痛感し、東南アジアでの活動に見切りをつけました。
その後、ヨーロッパへ活動の場を移します。患者さんの紹介で、モナコ海洋科学研究所の所長であったドマンジュ氏ご夫妻と出会ったことが、大きな転機となりました。ドマンジュ氏は、フランスの元市長や大統領補佐官も務めた超エリートで、彼との縁でヨーロッパの貴族の方々とも交流を持つようになりました。
世界中を飛び回る中で、私は鍼道具を持ち歩かなくても、自分の「手」だけで鍼と同じような効果を出せる手技を編み出せないかと考えるようになりました。手は身体の一部であり、どこへでも持っていける最高の道具だからです。ヨーロッパの医師たちと対等に話せるよう西洋医学の基礎も学び、古くから伝わる療術を独自に発展させ、自らの技術を「手技道」と命名しました。
第六章:教育者として ― 未来への種蒔き
50歳になった時、新たな転機が訪れました。当時、患者さんであった国鉄の幹部の方々から、駅構内に治療院を出さないかというお誘いを受けたのです。素晴らしい話でしたが、実行しようにも、私の理念と技術を継承する人材がいませんでした。この時、私は「手技道」を担う人材を育てなければならないと強く感じ、教育者としての道を歩み始めることを決意しました。
治療家、経営者、そして教育者として、私はそれまで培ってきた学問を体系化し、さらに深めていく作業に取り組みました。しかし、技術だけでなく、人格・品格ともに優れた人間を育てることは、想像以上に困難な道でした。
私は、手技道のスタッフを海外研修へ積極的に連れて行きました。韓国、中国、東南アジア、オセアニア、ヨーロッパ、北米、中南米。費用はすべて私が負担しました。与えられるものを、ただひたすら与え続ける。それは、いつか彼らが人の役に立つ時に、その経験が何かの助けになればという純粋な願いからでした。拓念和尚から学んだ「与えるのも、いただくのも、すべてのすべて」という教えの実践です。
そして、日本の武道や華道、茶道のように、その道を究めるための指標として、「段位制」を導入することを考えました。免許の有無だけでは測れない技術の差を可視化し、誰もが目標を持って成長できる仕組みです。段位制は、技術だけでなく、人格や品格をも磨き上げ、心技体を一にする人間教育の根幹となると確信しています。
終章:仲間と共に創造する未来
振り返れば、私の人生には「親友」と呼べる存在がいませんでした。しかし、29歳を境に、人生の師と呼べる方々、尊敬する人々との出会いに恵まれました。物理学、生化学、鍼灸、遺伝学、人間学、霊学。それぞれの分野で私に道を拓いてくれた恩師たちは、まるでその役割を終えたかのように、皆私の前から去っていきました。今、私がここに在るのは、その方々の思いを託されたからだと感じています。
30代からは、ドマンジュ博士をはじめ、海外で活躍する多くの治療家、霊視能力者のダニオン・ブリンクリー氏、エゴスキューメソッドの創始者ピーター・エゴスキュー氏など、世界的な人物との出会いも数多くありました。そして、多くの著名な患者さんたちとの交流。これらの出会いすべてが、私の人生をかけがえのない豊かなものにしてくれました。
近年、「手技道アカデミー」を始めてからは、同じ志を持つ素晴らしい仲間たちとの出会いがさらに増えました。この仲間たちと新しい未来を創造していくことは、今の私の大きな喜びです。
これからの「手技道」は、100年、1000年後の医学と医療を見据えて、新たな一歩を踏み出します。その集大成として「手技道協会」を設立し、段位制を基盤とした人間教育を通して、広く社会に貢献していく所存です。
現代医学は、人体を科学的に可視化できる範囲で捉えようとしています。しかし、人体には目に見えない不可視の世界も確実に存在します。これからの医療は、その両方を科学的に探求しなければなりません。人体をミクロとマクロの両面から検証し、病とは何か、健康とは何か、病はなぜ起こるのかを、根本から問い直す必要があります。
私の人生は、だまされ続けた人生だったかもしれません。しかし、それでも私は人を信じ、神を信じます。なぜなら、人は神の子であり、天の分け御霊だからです。神を信じることは、人を信じること。それは真理において一体なのです。神の差配によって生かされたこの命を、これからも「人に喜ばれる仕事」のために捧げていきたいと、心から願っています。